某通信大学のある学科のレポートを書いた時にまとめたものです。
参考程度にご覧ください。

聖武天皇の前の天武天皇・持統天皇の時代から仏教は、建築・彫、絵・仏具など種々の先進的な文化や技術・思想を含む文明の象徴でした。
※ちなみに仏教伝来は538年もしくは522年説がありますが、近年ではそれも疑わしいとか。
また、政治的・文化的な権益を持っており、天武天皇は、律令国家建設へと指導。
同時に国家的仏教施設の整備と、護国教典による国土鎮護の政策も推進し、僧を統括する政策も実行していました。
そして、聖武天皇が即位したころ、地方では反乱や権力争い、凶作や伝染病の流行など様々な災いが起き、とても苦しい時代でした。
そこで聖武天皇は仏教には鎮護国家の力があると深く信じていたことから、仏教の力を頼り、仏像をつくったり、写経をさせたり、寺院を建てるなどを行うことで国を安定させようとしました。
神亀2年(725年)、聖武天皇は災異を除くために宮中に僧を請じて大般若経を読誦させ、以降それまで一時期中断していた宮中仏事を再開させ、大般若経や災難滅除のための仁王経を読誦するなど、災難に対して護国教典を読誦する法要を行いました。
天平9年3月には、天然痘流行と凶作に対して、国ごとに釈迦三尊の造立や大般若経の書写を命じました。
また、仏教による救済政策として、諸国と宮中で大般若経や金光明最勝王経を僧侶に読ませる仏事を実施。
天平12年6月には、諸国に法華経十部の書写と七十塔の建立を命じました。
天平13年には疱瘡流行を契機に災難除去を目的として国分寺・国分尼寺の建立の詔を発布し、各国に国分寺と国分尼寺を建立させ、それぞれの寺院には四天王による御加護が得られる金光明最勝王経を安置しました。
この頃から仏教によって国を守るという鎮護国家思想へと傾斜していきました。
そして天平12年に河内の智識時に行き廬舎那仏を見たことがきっかけで、聖武天皇も東大寺大仏の造立を進めようと考えました。
大仏の造立には災いを鎮め、国を平和にすることだけが目的ではなく、大仏をつくることで民衆の心を一つにしたいという狙いもあったそうです。
そのために、智識寺の廬舎那仏建造を見習い、東大寺の大仏の造立にあたっても、国の費用だけでつくるのではなく、民衆からの寄付も集めるといった仏教政策が実施されていきました。
このように、聖武天皇は天災や厄災が起こる世の中を仏教の力を借りて納めようという鎮護国家思想を抱き、寺院や大仏を造立するなどの仏教政策を行いました。
※民衆からお金を集めて、みんなで大仏を建てることで心が一つになると考えて建造していたが、実際は民衆はお金に苦しんでいたそうです。また、普通の大仏ではなく、特別な大仏を作るために周りには金メッキが加工されています。金を鍍金するために、水銀に金を溶かし込んで、これを大仏の表面に塗布します。この工事過程で、水銀が蒸発するので水銀中毒になりやすく、実際に多くの作業に携わった民が命を落としてしまったそうです。
聖武天皇の時代、当時の日本の全人口は600万〜700万人と伝えられており、その中の260万人が大仏建造に携わったと言われています。そうなると、当時の日本の40%もの人口にあたる人々が東大寺大仏の建立に関わっている計算になり、とても大きな国家政策だったことがわかります。
聖武天皇がつくらせた東大寺大仏(正式名称:毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ))は、創建当時の大きさは15m80cm・重さ250トンでした。現在でも世界最大のブロンズ像と言われています。
この「毘盧遮那仏」とは、太陽のような身光・知光の大光明で全宇宙を照らし、永遠不滅の宇宙真理を表現した仏様であり、左手で宇宙の知恵、右手は慈悲を表していると言われています。人々が思いやりの心で繋がり、絆を深めることを願っている姿なのだそうです。
参考資料
↓この時代の流れを見るのにとても分かりやすかったです。